コーヒー3杯

紙の日記が苦手だから。

灼熱と冷却の間で

今日は久しぶりにカレーライスが食べたくなって、作って食べた。ダシとか生姜も入れて、ちょっと和風風味にして。
数日前まで炎天下の国にトリップしてたのに、今日は子供たちがダウンを着こみ始める程冷え込んだ我が町。寒くて午後はずっとお家にいたよ。

今日のお気に入り曲。
Chance the Rapper「No Problem」

眠れない夜は

何も考えない。考えたくないから、音楽を聴く。
何がどうしたら、どうなったら満足するのか、自問を繰り返しても答えはなく。ゴールのビジョンが見えてないのに、気持ちだけが焦燥にかられて、全然大人じゃない。

懐かしいナンバーを今日は久しぶりに聴いて。

My Little Lover「Man & Woman」

楽園のカンヴァス | 原田マハ(新潮社)

面白い小説ってはじめの数ページでわかるもんで、この小説ももう最初から面白い予感がひしひしとあって、時間を見つけて一気に読んだ。

楽園のカンヴァス

楽園のカンヴァス


確かに評判通り、面白かった。でも、最後まで読み終えてしまうと、何だろうこの物足りない感じ。
スピード感があって一気に読ませる語り口は大好きだけど、この話、実は色々足りてないよね…?アート・ミステリーと銘打たれてるけど、実際そこまでミステリー色は無く、私は鑑定バトルの方に燃えたんだけど、そちらも不完全燃焼だった。

織絵のバックにはキーツがいて、さらにオーウェンも絡んでいるのであれば、そこのドロドロが見たかった。いわば、テート・ギャラリー VS MOMAの代理戦争を呈しているんだから、キーツとトムがもっと絡んでも良かった。バーゼルに現れたトム・ブラウンが、鑑定バトルの件を知らずにただ素通りしただけなのはいただけない。色んな人間が暗躍してる中でひとりオアフでのんびりバカンスしてたなんて、あまりにも間抜け。そして、鑑定バトルのラスト、真作と贋作を見分けた根拠をもっと詳しく知りたかった。もっともらしい、科学的&技術的な視点も語ってほしかった。最終的に織絵は自らの意志でアートの世界から身を引いたけど、ティムは何のお咎めもナシでMOMAに勤務し続けるってあり得るんだろうか…。あれだけ脅したマニングは何もトムにリークしなかったの?

最終的にね、色々落ちてるパズルのピースがね、合いそうで合わないのよ。想像でどうにかなる話じゃないのよ、これ。文句言いたいわけじゃない。この小説面白かったの、久しぶりにかぶりつきで読んだの。だから勿体ないな…って。でも作者のルソーへの大きな愛は伝わる、読者にも伝染する。ルソーの絵、それこそMOMAの「夢」を人生でいつか一度、この目で直に見てみたいなって、この小説を読んで思った。

読みながら、ルソーやピカソの絵がずーっと気になってて、読み終わると彼らの絵をネットですぐに画像検索した。きっとこの本を読んだ人は、みんなそうだと思う。
という訳で、この本のお供にはこれを。

久しぶりに美術館に行きたくなった。岡山県大原美術館、行ったことないけど、いつか訪れてみたい。

夜更けの独り言

WEBに日記(というほど毎日書いてないし、最近は日記でもないけど)をつけるようになって、今年で10年。形を変え、場所を替え、細々と続けてきた。
はじめははてなダイアリー、その後WordPressに移って、またはてなに戻ってきた。でも今度は、はてなブログで。最初のはてなダイアリーはまだ残ってる。もう続き書いてないし誰も見てないけど、残してる。
この日記以外に別で書きたいものがあった時に別のブログサービスを試したりしたんだけど、結局はてなに戻ってくるくらいに、正直はてなが好き。それでも最近というかここ数年、どうしても相容れ無くなって来ててそれが苦しい。
自分がブログ書く分にはまだいいんだけど、はてなを取り巻く人たちの雰囲気がどんどん変わってきて、大好きな書き手たちはみんな去って行ったなー…。個性豊かなテキストの書き手たちはみんなどこに去ったの。ブログ辞めてTwitterに流れた、とかそんな簡単な理由だけじゃないでしょ。書きたい人たちは140字じゃ足りない。書く場所の魅力が無くなったんだと思う。
はてなってだけで昔はどんな人が集まってるのかわかりやすかったんだけど、最近は雰囲気がだいぶソフトになった。昔のはてな嫌いって人いるの知ってるし、路線がだんだん変わって来てるのは仕方ないと思う。理解してる。若い人も増えたしね。でもね。私、アフェリエイトとかどうでもいいし、日々役立つ情報を熱心に仕入れなくてもいいの。ただの他人の日記を、ガツンと棘が刺さるような呟きを読みたいのよ。素晴らしい書き手ははてなブログにも沢山たくさんいるんだけど、私がグッとくる書き手を見つけられないのよ。今、それだけの欲を満たしてくれたはてなダイアリーからかなり遠いところに来た気がして、時々どうしようもなく寂しくなるんだ。世代交代が何度かあって、その波に私が乗れてないだけなんだと思うんだけど。

熊の敷石 | 堀江敏幸(新潮社)

この一冊は何度か読んでるけど、いつも内容を忘れちゃう。思い出すために何度も手に取って、また忘れることの繰り返し。芥川賞をとった表題作はじめ、収められている三篇は実は私にはピンと来てない。

それでも手放さないのは、堀江敏幸の作品だからかな。彼の本にはいつだってフランスの匂いがして、その一端を吸い込むと、自分の短い留学時代を何となく思い出して胸がくすぐったくなる。それを毎回期待して読んでるんだと思う。

熊の敷石 (講談社文庫)

熊の敷石 (講談社文庫)


「熊の敷石」はユダヤ人の古い友人との話。
久しぶりにフランスに来て、彼と再会し、かつて過ごした時間が蘇ってくる。そして思う。フランス語がまだおぼつかず、フランスにも疎かった「無知な」自分は、彼にとって話さなくてもいいことを話させる危険な存在だったのでないか、と。真相はわからない。

私は他人と交わるとき、「なんとなく」という感覚に基づく相互の理解が得られるか否かを判断し、呼吸があわなかった場合には、おそらくは自分にとって本当に必要な人間ではないとして、徐々に遠ざけてしまうのがつねだった。ながくつきあっている連中と共有しているのは、社会的な地位や利害関係とは縁のない、ちょうど宮沢賢治のホモイが取り逃がした貝の火みたいな、それじたい触れることのできない距離を要請するかすかな炎みたいなもので、国籍や年齢や性別には収まらないそうした理解の火はふいに現われ、持続するときは持続し、消えるときは消える。不幸にして消えたあとも、しばらくはそのぬくもりが残る。

貝の火」が消えても、ぬくもりは残る。そのぬくもりを感じられていれば、それでいいんじゃないか、って私も思っている。
私も作者と同じ考え方。こうしかできない。

アヒルと鴨のコインロッカー | 伊坂幸太郎(創元推理文庫)

映画になったのは覚えてる。映画は結構話題になって、原作があるのを知ったのは少し後だった。

アヒルと鴨のコインロッカー (創元推理文庫)

アヒルと鴨のコインロッカー (創元推理文庫)

期待して読んだんだけど、うーん…イマイチだった。
ストーリーもそんなにビックリするようなドンデン返しはなかったし、登場人物たちのキャラクターも私は愛せなかった。…残念だ!
原因の一つはね、ブータン人のドルジって子がいるんだけど、彼をよく知らない日本人がブータンを馬鹿にしたり、偏見持ってたり、果ては「外人だから…」って対応するんだけど、一般ピープルってそこまで皆レベル低い!?とか思っちゃって何かモヤモヤ。逆説的に「外人に偏見持つのは良くない!」っていうメッセージを含んだ作品だった?なんて邪推してしまうほど。何か無駄なところにエネルギー浸かっちゃった気がする…。

映画はまた違った印象なんだろうか。

アヒルと鴨のコインロッカー [DVD]

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生きながら火に焼かれて | スアド(ソニー・マガジンズ)

この本の存在は知っていた。たぶん、2004年くらいに店頭にこの本が並び始めたときから。
でも、手に取ることはなかった。「名誉の殺人」の実際のところを知る勇気と、それを受け止める勇気が私にはなかったから。

生きながら火に焼かれて

生きながら火に焼かれて


本のタイトルと白い仮面をつけた女性のアップの表紙は、店頭で見ていた時から慣れない。実は今も怯む。
この本は二部構成になっていて(真ん中に彼女を助けた人権団体の女性の声が入るけど)、前半が殺されかけるまでの彼女の家族や生活の話で、後半がヨーロッパに逃れてからの話。

この本の主人公スアドが生まれたのは、中東シスヨルダンの田舎町。そこは男性が絶対優位で、女性に人権は与えられない場所。女として生を受ければ、学校には行けず、一日中家の手伝いをして過ごす。女の子同士で自由に会話したり、男の人と道端で目を合わせたりすることは厳禁であり、ひとりで自由に外出することさえ出来ないので、結婚するまで女の子は家の外の世界を知ることはない。

家庭内では、家長である父親が妻や娘に容赦なく暴力をふるう。そして、暴力だけでなく殺人(殺されるのは女)も日常茶飯事で行われている。子どもは男の子が望まれるので、女の子が2、3人を超えるとその次から生まれた女の子はこの世に誕生した瞬間に母によって窒息死させられる。不貞があった女性は家族の男性から殺められる。実際、スアドのすぐ下の妹は弟によって殺されている。理由はわからない。

女の子として生を享けた以上、生まれながらにして奴隷のようなものだ。男たちとその法則に従って生きていく人生は、父親によって、母親によって、そして兄弟によって常に管理され、さらに一見、解放されるかのように思える結婚という新たな人生においてさえ、今度は夫となった者に従属するという運命がついてまわる。


とにかく前半で書かれている父親の暴力が凄まじい。フォントが大きくてそんなに厚い本ではないのだけど、彼の暴力は完全に度を越していて、なかなか先を読み進められない。スアドも常に暴力と死の恐怖に苛まれるけれど、次第にそれらの行為に疑問を感じなくなっていく。

家族間で行われる「名誉の殺人」でずっと疑問だったのは、昨日まで一緒に暮らしていたはずの家族をどうして殺せるのか、という一点だったのだけど、常に壮絶な暴力があったのであれば、何の不思議もない。そもそも娘を「愛してない」んだから、何の躊躇もなく殺せる。娘への愛よりも、家族が世間から受ける恥への恐れの方が勝る。

スアドは17歳(19歳?)になって恋に落ちて、妊娠する。妊娠が分かって、彼は義兄に殺されかけるわけだけど、運よく一命を取り留めても、病院まで母親が彼女を殺しにやって来る。こちらの想像を超えるほどの、その執念。

ヨーロッパに逃げてからは、彼女はゆっくりと再生していく。当然上手くいくことばかりではないけれど、本の最後に綴られているのは、彼女がたどり着いた家族の幸せな形。
そして、彼女は「名誉の殺人」の貴重な生存者として、この事実を世界に知ってもらうために、自分の過去について証言し始める。

私の弟は家族で唯一の男の子でした。ヨーロッパの男性と同じような服を着て、学校にも映画にも床屋にも、自由に外出できるのです。
<中略>
弟は幸いにもふたりの息子に恵まれました。でも、ラッキーだったのは彼ではありません。kの世に生を享けなかった彼の娘たちです。生まれてこなかったという最高のチャンスに彼女たちは恵まれたのです。

私は今でも本名を名乗ったり、顔を出したりすることはできない。できるのは話すことだけ。話す、これは私に残された唯一の武器だ。

ここまで言わせる、女の子としての生とは。スアドが望んでいるのは同情じゃない。まず初めに必要なのは、知ることだ。世界のどこかで女の子たちの身の上にこういうことが起きている、ということを知ることだ。

私、読み終えてから、やっぱり読まなきゃよかった、って正直少し思った。スアドの人生を受け止めるには覚悟が必要だった。何度も途中で休憩を入れながら、痛みや苦しさから解放されたくて、読み進んだ。この本は精神的にももちろんそうだけど、物理的にも痛い。消化するにも少し時間がかかる。
でも、鉛のように記憶に残る一冊になる。