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コーヒー3杯

紙の日記が苦手だから。

本格小説 | 水村美苗(新潮社)

嵐が丘」を読み終わってから、何としても「本格小説」を再読せねば、と思っていた。
数年ぶりに読み返したのだけれど、この本を読むと必ずこの小説の世界に引きずりこまれてしまって、読み終わってしばらくは放心状態になる。もう何度も読んでるのに読むたびに魂を持っていかれるロマン小説。

本格小説〈上〉 (新潮文庫)

本格小説〈上〉 (新潮文庫)

本格小説〈下〉 (新潮文庫)

本格小説〈下〉 (新潮文庫)

この小説が刊行された当時の書評では「階級小説」という言葉がよく使われていて、「ふーん」と心に留めながらも実は余りピンときてなかった。ただの恋愛小説だと思っていた。でも改めて読み返してみて、今回初めて「階級小説」という言葉の意味が理解できた。「嵐が丘」を読んだから、というよりは、私が少し大人になって、ある程度社会の構造が見えるようになったからだと思う。むしろ今まで何でそこを読み取れずに来られたのか、それが不思議。

この物語の階級の頂点は重光家、その次に三枝家と続くけれど、この三枝家の中にも階層がある。まず、三枝三姉妹の長女の春絵と次女である夏絵の嫁入り先の格が違う。宇田川家は三枝家よりも格で劣る。そして夏絵が嫁いだ宇田川家だけれど、姑は後妻でかつては芸者だった女性なので、彼女も元々は宇田川家と同じ階層の人間ではない。また、三枝家の美人な血筋を受け継いだ夏絵の長女ゆう子と、その血筋を不思議と受け継がなかった美しいとは言い難い次女のよう子も同格ではない。つまり宇田川家内でも、夏絵の旦那と夏絵、夏絵の姑、そして夏絵の娘のゆう子とよう子で、それぞれに格が異なる事態が発生している。そして、そこに宇田川家に住み込みの家政婦として勤め始める長野の農家出身の富美子と、隣に越してくる満州から引き揚げてきた純潔の日本人ではない太郎が加わる。周到にグラデーション状に構成されたこの階級階層は、物語が進むにつれてそれぞれの色を濃くしてゆく。

よう子が死の淵で太郎との関係を「これ以上なかった」と言ったのはなぜなのか、どうしてよう子と太郎は結婚できなかったのか、昔の私には理解できなかったけれど、今回は胸が締め付けられるほどによう子の気持ちが私にはわかってしまった。
よう子と太郎は、生まれついた世界が違う、ただそれだけのこと。
よう子にははっきりと太郎との境界が見えていた。もちろん太郎も然り。それでも太郎はその境界を超えたかった。アメリカでどんなに成功して帰って来ても、出自は変えられない。出自を問わず太郎を迎え入れ、アメリカン・ドリームまで与えたアメリカとは対照的な日本の姿が見える。恐ろしいほどに切ない。

あからさまには見えなくとも、日本の社会にもひっそり連綿と続いている階級(生まれながらの格差と言い換えてもいい)というものに、普段は私も無頓着だけれど、こうしてまざまざと見せつけられると凄まじいものがある。 時代のタイミングや持ち金を増やすことによって、階級を超えて行けるように見えて、実際はそれができない。生まれついた瞬間からの、絶対的に超えられない境界があって、そのうちにいる者はその境界に非常に敏感だ。そして外側の人間が壁を越えて来ることを強烈に阻む代わりに、彼らには没落がある。その階級を時代の流れと共に維持できなくなるのである。盛者必衰、とはよく言ったもの。かつては上流だった一族が少しずつ、中流に溶けていく。 三枝三姉妹のかけがえのない軽井沢の別荘(重光家の別荘も含む)が、後年太郎の財力によって維持されていたのは皮肉だ。冷酷なパラドックスだ。

この物語で語られるのは階級だけではない。愛情も特異に描かれている。そこについても少し。

太郎と結婚しなかったよう子は果たして冷たい女なのか。そう問われれば、私は違うと答える。彼女は二人の男を平等に愛しきった。それはそれで、ある意味で恐ろしい女とも言える。
物語の終盤、よう子が雅之と喧嘩して家出した時、なぜ太郎との思い出がある追分ではなく、軽井沢の別荘に彼女が向かったのか、かつての私にはわからなかった。そして、追分ではなく「軽井沢だと思う」と、なぜ太郎がいち早く悟ったのか、も謎だった。でも今回はっきりわかったのは、太郎と喧嘩した時は太郎との思い出がある追分に逃げ込み、雅之と喧嘩すると雅之との場所である軽井沢に逃げ込む、よう子独自のフェアな愛情だった。雅之はどこかで太郎に引け目を感じていたかもしれないけれど、太郎はよう子の雅之に対する大きな愛情を知っていた。だからこそ、彼はよう子の場所を知り得たのだ。 よう子と太郎と雅之と拮抗したトライアングルで絶妙にバランスの取れてしまった関係。お互いの取り分を男たちはよく理解している。二人に愛されたよう子は、若い頃は上流社会では負け組だったけれど、後年不思議と逆転勝ちした女になった。

そしてこの物語の語り手である富美子。
はじめて読んだ時から、富美子と太郎の関係に実はひっかかるものがあった。アメリカから帰ってきた太郎と富美子が15年ぶりに再会する場面、会話が少しおかしいと感じていた。妙な違和感を覚えながら読み進んでからの、最後のどんでん返しになるのだけれど、その切なさは太郎が抱え込んだものとは別の種類の切なさだ。ここに階級差はない。ひとりの女として、「よう子ちゃん」にはなれない富美子の切なさがある。
構成上必然とも言えるが、私は富美子に肩入れして読んでしまった。結末を知っていても、何度読み返してもいつだって、私は富美子となって物語の中に入り込んでしまう。作品自体は壮大だけど、結局のところ、地方出の女の、少し変わった切ない半生の物語のような気がしてならないのである。