ちょっと北朝鮮まで行ってくるけん。(2021年/日本)
3年前にEテレで林典子さんが取材した北朝鮮にわたった日本人妻のドキュメンタリーを放送していて、なんとなく見ていたのに、気が付けば画面に釘付けになったのを覚えてる。
彼女たちは日本社会から忘れられた存在となって久しいが、かの国で生き続けていて(当然である)、日本への望郷の思いを募らせている。配偶者も亡くなり、日本に帰りたいけれども帰れない。
日本人拉致被害者は時折報道でも目にするが、日本人妻の存在は誰が思い出させてくれるのか。私自身、北朝鮮に「帰国した」日本人妻の存在を知らず、このドキュメンタリーで初めて知ったと思う。そして、その後に帰国事業のことを少し調べて、絶望した。
www.nhk.or.jp
そして2021年。
「ちょっと北朝鮮まで行ってくるけん。」が公開されて、これは行くしかないなと思って、見に行ってきた。
国境と長い時間に分断された姉と妹。
お姉さんの愛子さんにも語られない色々なことがあったろうし、かつて少女だった恵子さんも大人になり、カメラの前では語っていない大変な苦労があっただろうことが想像される。北朝鮮に渡った姉のことを常に考えるような心の余裕もなく、きっと人生に追われていただろう。
50年以上の時を超えた再会は果たしてどうなるのかと思ったが、愛子さんは車いすから身を乗り出して恵子さんの方へ腕を伸ばした。その強い思い。
少し時間がたってから、愛子さんが「恵子は会ったら私を叩くと思った」と笑いながら話していたけれど、愛子さんは恵子さんに会えるのは嬉しかったけど、その反面怖かったんだなと。チャーミングな笑顔とは裏腹な、北朝鮮から贈られた手紙の文面には愛子さんの凄まじい苦しみが詰まっている。
ふたりが会えて、よかった。
多くのまだ北朝鮮に残っている日本人妻の方たちが、愛子さんや恵子さんのように、日本の肉親と会えてほしいが、現実はそうはいかない。人それぞれの事情がある。
だがしかし、日本政府からのフォローはあってもよいのではないか。北朝鮮への帰国事業は当時の国策だったが、その後はほぼ棄てられた民のような扱いだ。かつて行われていた日本人妻の一時帰国事業(これはテレビで報道していたのを覚えているなぁ)も、もう20年近く止まったまま。彼女たちは年を取り、残された時間はほぼない。
政治の我慢比べはいったんわきに置いて、人道的観点からどうにかならないかと思う。
この映画が広く見られてほしいと願ってやまない。 chottokitachosen.ndn-news.co.jp
映画館からの帰り道の夕暮れ。黄金町の駅のホーム。
恋のドキドキシェアハウス 青春時代 / 青春時代2
韓国ドラマ。邦題は『恋のドキドキシェアハウス』。センスが理解できない。 邦題に引っ張られてなかなか手が伸びなかったんだけど、見始めたら面白くて2週間くらいで一気に見た。
登場人物たちのキャラ設定が確立されていて、それぞれを丁寧に描いているところがとても良い。
シェアハウスで暮らす彼女たちは常に仲良しな訳ではなく、同じ屋根の下でそれぞれが衝突したり反発し合うこともあるのに、ピンチの時には一気に連帯する。最高。友情というより家族なんだよな、本当に。 あとシェアハウスの中で5人が揃うシーンは見せ方が時に舞台的で、彼女たちの躍動感を感じられて興奮した。
5人それぞれの誰かにみんな感情移入して見るんだと思うけど、私はS1のジンミョンとウンジェが他人事ではなく、特にジンミョンのエピソードは心で大号泣しながら見守ってました。
ただ私の本当の推しは↑の2人ではなく(ごめん)、実はホラ吹きジウォン。 彼女の態度は誰に対してもフェアで、立ち振る舞いが羨ましかった。誰の悪口も言わないし。S2で自分の過去と向き合う彼女は窮地に陥っても弱音を吐かず、淡々と出来ることやるべきことを進めていて、そんな姿勢にも惚れた。なかなか出来ないでしょ。 殴られた顔をソンミンに見せた時の「カラフルでしょ」ってセリフ、普通出てこない。しなやかで、セクシーだった。
2シーズン制作されたけど、キャスト変更があったり、S1のようなテンポが失われた気がしてS2は正直イマイチだったかな。個人的に。 役は生きてて役者が変わるって古今東西そうそうないと思うんだけど、すごい英断。パク・ヘス→ジウになったら、顔しぐさ全て正反対の子になっちゃった気がするけど、どうして彼女を当てたんだろう。身長かな?
↓ウンジェはやっぱりパク・ヘスが良かったな~。 S1のこのガチャガチャな雰囲気が良かったんだよな~。
フェアウェル(2019年/アメリカ)
何となく中国の映画を見たくてアマプラでチョイスしたら、これアメリカ映画だったよ。 しかも製作はA24。
主演の女の子いいなーと思ったら、「オーシャンズ8」のあの娘か! 表情やしぐさもいいけど、ハスキーな声がいい。彼女が話すと心地いい。
ビリーの住むアメリカはもう夢の国じゃない。じゃあ中国はどうなのかというと、ビリーにとってルーツはあるけどやっぱり他人の国。 国を跨いで生きる家族のそれぞれの思いが随所に散りばめられてて見入ってしまった。 どこで生きようと難しい時代だけど、どう生きるか。何を肯定するかは、人それぞれだね。
結婚式の家族テーブルで、みんなで鳥のゲームしてるシーンがとても良かった。何となくすれ違ってた家族の気持ちが円になった感じがして。みんなの顔、とくにナイナイの妹の表情がとてもよかった。
ミナリ(2020年/アメリカ)
見てきたよ。公開されるの心待ちにしてました。映画をこんな気持ちで見に行ったのは久しぶり。
(このポスターがお気に入り。アメリカ版ポスターはおばあちゃんのいない4人のがあるんだけどあれはひどくない??)
アーカンソーに越してきた韓国人一家のお話。
トレーラーなどで「農業の成功を夢見てやってきた一家」とか言ってるけど、農業の成功を夢見ているのは父のジェイコブだけである。
5人の家族には互いに小さな、もしくは埋められない不協和音があって、それが細かなエピソードで延々と紡がれるのだけれど、「ああこういう家族の映画なのかこれは」と想像していたのとは少し違って驚いた。自分はこういう延々と日常が続いていく作品が好きなのでこれもありと面白く見てたら終盤に歯を食いしばらずにはいられないような展開になり慄いた。悔しさや哀しさには分類できない、これまで家族の姿をずっと見させられていたからこそ湧き上がる、現実に対する途方もない憤りが自分の全身を貫いていく。家族はそれぞれを呼び続ける。夫婦は互いを。子供たちは親と祖母のことを。衝撃の一夜が明け床に雑魚寝した一家にこの家族の力強さを見た。
個人の映画評をちらちらと読んでいると、父ジェイコブの愚かさに触れるものがいくつかあって驚いた。自分は彼を愚かだとは思わなかったから。
この作品は冒頭から激しい夫婦喧嘩があって、自分は自身の両親を思い出したし、「喧嘩をやめて」と子供たち二人が紙飛行機を飛ばすシーンの二人の気持ちは痛いほどわかるし、自分の子供時代も親の喧嘩を目にするたびに似たようなことをしていた。この瞬間に自分は父ジェイコブや母モニカの視点でこの作品を見ることはできなくなって、誰に呼応したかというと娘のアンである。作品全体を通してアンの描写は薄く、彼女の心理描写はほとんど描かれないので想像するしかない。この空白の溝に自分の意識を入れ込んで見てしまった。正しい映画の見方ではないのかもしれないけれど。
何が言いたいかというと、ジェイコブは確かに自分勝手な一面もあるが、同時に妻を気遣ってもいる。それが妻の求めているものと異なっているだけである(それが大きな問題なのだけれど)。父と母が何度か別れの危機を迎えるが、姉アンと弟デビッドはどちらについていくべきか選べない。これはかなり大きなことで、母が可哀そうだと強く思っていればきっと子供たちは迷わず母を選ぶ。つまり彼らにとって父は悪夫でも悪父でもない。
家族を選ぶのか夢を選ぶのか、というのは大きな問いだが、ジェイコブは自分の夢を叶えた先に家族の幸せを見ているように思う。でもモニカにはジェイコブのその先が見えていない。ジェイコブがもっと語れたらいいのに。
二人はそれぞれの家族の幸せを見ているように思うけど、それを二人は上手に具現化できなくて会話は抽象的だから二人の誤差は埋まらない。闇雲に心が離れていく哀しさがあるけれど、ジェイコブだけが愚かだとは思わないし思えないのは、やはり彼のモニカへの思いやりを感じるから。子供たちへのそれよりも強く。アンの視点から。自分の父はあのような思いやりを持てる男ではなかったから尚更。もうどうしても自分はモニカの視点に立てない。
このジェイコブという役は、スティーブン・ユァンではない俳優が演じたら、また違ったジェイコブになっていたと思う。もしかしたら高圧的、独善的な夫、父親になっていた可能性もある。そう考えると、自分のこの考えは俳優の個性やスキルによるところも大きいのかもしれない。
終盤の再出発の場面で、水脈を探し出そうとするジェイコブの隣にはモニカがいる。十分である。
ここまで主にジェイコブについて語ってしまったが、この作品の主役はデビッド。デビットと祖母の関係が多く描かれるが、祖母を神格化させず、ステレオタイプなところに押し込めなかったことも、この作品の好きなところ。少しずつ祖母との関係が変化していく中で、細やかに表情を変えていくデビッド役のアラン・キムも素晴らしい。
残念なのはやはりアンの描写が少ないところかな。これは監督の自伝的要素を多く含んでいるようなのでデビッドに多く時間が割かれるのは致し方ない。ただもう少しアンの存在を見たかった。彼女にも心の内に秘めた葛藤があったと思うから。
この作品はアメリカにわたって農業成功の夢を見る一家の物語というより、普遍的な家族の物語である。慣れない土地で時に追い詰められながら、家族であろうとするためにもがいている彼らの幸せを強く願わずにはいられない。
猟奇的な彼女(2001年/韓国)
ちょうど『プロデューサー』と『最高の離婚』を見終えてチャ・テヒョン熱が高まってたんで。ちょうどNetflixにオススメされたんで。
日本公開は2003年なんだけど、「いつか見るもん……」と思いながら20年近くが経ってたよ。
正直はじめの1時間は蛇足のエピソードが多いような気がして途中でリタイアしようかと思ったんだけど、ラストの30分で大どんでん返し。前半のあれやこれはこの終盤に行き着くまでのフリだったのかよ。
キョヌがぼーっとしながら彼女のわがままをいつも受け入れてきたけれど彼女はその優しさに救われながら自分の気持ちを整理できず戸惑ってたんだね。
何度もすれ違って距離が縮まらない彼女とキョヌに急に強い親近感を覚えて何だか他人ではなくなってしまって、彼らの行方に心が震えたよ。
「I believe」の歌も上手い具合に切なさを加速させる。
だってチャ・テヒョンの顔がずるい。優しい表情に嘘がなさそうでニッコニコされるとちょっと痛めつけたくなる彼女の気持ちがわかる(ごめん)。ちょっと不幸でいてほしいって思っちゃう(ごめん)。
個人的に大好きなのはクラブに入る時のこのカット。
2人が最高にドヤ顔。無敵な2人。
映画のラストにこのシーンを持ってきたのも最高すぎるでしょ。
泣きたくなるんだけど。
あと余談でこの作品の別軸の感想として、これは個人的なノスタルジーになっちゃうんだけど、大学生→社会人という時間と互いの距離感の曖昧さが懐かしくて、そしてあの時間が遠い過去になったことを思い知らされて胸が少し苦しくなった。
懐かしすぎるんだよ、ガラケーもポップなメールのクライアント画面も。
SNSやLINEがなかった時代の、「お掛けになった電話番号は現在使われていません」というのは電話番号が変わってその新しい電話番号を教える相手ではなかった、という意味合いで今振り返るとまだ人情味がある。LINEで友だち切られたりアカウント消されたりするのは「お掛けになった電話番号は現在使われていません」とは全く別の世界線だと思うから。
2001年と2021年からの定点観測的な気づき。そんなとこ。
『ハングルへの旅』を読んだよ
茨木のり子がハングルを勉強してたと知ったのは、つい先日のこと。知ったときはとても驚いたし、著作に興味がわき、近所の本屋で偶然本書を見つけて買い求めた。
本書の刊行は1986年なので、もう35年も前のエッセイになるのだけど、語学を学ぶ姿勢の瑞々しさと、かの国への尽きない興味関心、そして日本との歴史的関係に対する彼女の思いが真摯に記されていて、むしろとても面白い。時代の違いは感じない。
私は学生時代にはフランス語、社会人になってからロシア語、そして昨年からは中国語を学び始めた(英語はツールとして必要なだけなので積極的に学んでいる類からは除外)。フランス語はもうあまり覚えていないけれど、ロシア語、中国語は今も続けている。だから彼女のエッセイに共感するところが多かった。せっかく現地で言葉を使っても発音が悪く通じない、派生単語に困惑したり、単語に日本語との共通点を見つけて嬉しくなったり。彼女の喜びや悲しみが、自分が四苦八苦している姿に重なるのである。
そして同じ教室で学ぶ人たちとの友情も興味深く読んだ。私にも少なからず、語学教室で一緒になり交流が続いている方たちがいる。教室でともに学んだあの一体感はなんと説明すればいいんだろう。同じ道を歩む同士というか。目指すゴールは微妙に違うが、ハイハイしながら、つかまり立ちをしようと必死になっている。その姿をお互いに知っている仲である。
最後に尹東柱についての章がある。
大学時代になにかの授業で読んで強く印象に残った詩「たやすく書かれた詩」(なんてタイトルだ - しかし胸を打つ)が載っている。彼について、私は詳しく知らないのだが、いつか読もうと思っていた彼の詩をこのエッセイの中に見つけて、自分の朝鮮に対する興味は大学時代にはすでにあったのだ、ということを思い出した。彼の他の詩をいつか読んでみようと思う。
ハングルに興味があってもなくても、朝鮮半島に興味があってもなくても、語学を学んでいても学んでいなくても、茨木のり子のハングル全てに対する熱くて少しミーハーな思いに打たれると思うので、この作品は是非お勧めしたい。
読み終えたら、すぐにでも隣の国への旅行計画を練りたくなるが、それが今できないことが残念だ。
- 作者:茨木 のり子
- 発売日: 1989/03/01
- メディア: 文庫
最後に、印象に残った個所を列挙するよ。
これまでの隣国に対する日本の態度について
柳宗悦は書いている。
「その美術を愛しながら、同時にそれらの人々が、作者たる民族に対して冷淡なのに驚かされる」と。
美術と言葉とは直接の関係はないけれども、(略)言葉を学ぼうとすることは、この<冷淡さ>の克服につながろうとする、一つの道ではあるかもしれない、と思っている。
関東大震災の折、朝鮮語の(略)特徴を逆手にとって、不審なものを呼びとめて「五十五銭と言ってみろ」とやった。「コジューゴセン」と答えた者をひっとらえ、虐殺したことは消すに消せない忌まわしい記憶である。
言葉を学ぶことは他者を知ろうとすることだと私も思う。誰か(それは国と置き換えても良い)を知ろう、理解しようとする意志は、その人に対する思いの始まり、スタート地点である。
彼女は過去の歴史を振り返りながら、言葉を学ぶことでそれを「個人」として克服しようとしている。
彼女が韓国語を学ぶ動機を紹介する章で、動機はひとつではなく、うまくは答えられないとしながらも、
隣の国のことばですもの
と答えるようになった、というくだりを読んで、彼女に対してもう全幅の信頼しかない。
外国語の深い森について
入口あたりではやさしそうだが、中に進むにつれ、森の大きさ、深さ、暗さに踏みまよい、とんだところに入りこんでしまったと、愕然とするのは何国語であれ同じだろう。
ほんとうに外国語の森は鬱蒼としている。そして言葉の奥行が深くなればなるほど、その国の人たちとのかかわりも深くなり、やがて、愛憎こもごもとなってゆくようだ。
言葉を学ぶことの奥深さよ。学んでも学んでも終わりはなく、むしろ自分の拙さを思い知らされる。でも、森に迷い込んだらもう戻れない。戻りたいとも思っていないから。
東アジア言語の音の共通点について
関係という感じはクゥワンゲーと読む。日本語でも昔はクゥワンゲーだったろうし、三木元首相などさかんに連発していた。しかし今は一般にカンケイと言うし、音の構造がどんどん単純化されてきている。昔の日本語はもっとずっと音素が多彩に区別されていた。
朝鮮半島の漢字読みは、中国の南北朝時代の音が多く入っているという説や、明末までのいろんな時代の音が入っているという説などさまざまであるらしい。 日本は呉音を採ったとよく言われる。
「新羅・百済・高句麗の三ヶ国の人と日本人が、両国間を頻繁に往来して、軍事、政治、文化上の交流や交渉を持ちながらも、彼らの間において言語上の障害を問題視した記録が、七世紀後半までは史書に見当たらない」
「関係」をつい最近まで「クゥワンゲー」と読んでいたとは知らなかった。中国語で「関係」を意味する「关系(guānxi)」と音が似ている。万葉集の時代は今と違い、日本語にはもっと複母音があったとも書かれていて、「へえ!」と驚いた。
古代では中国と朝鮮半島、そして日本はどのように意思疎通を図っていたのか、自分もずっと気になっていた。もしかしたら漢字だけでなく、発話においても似たような音を使っていたのか。
いま、自分が学んでいる中国語は発音や音の作りが難しいと感じるのだけれど、かつての日本も同じ音を採用していたのかもしれない、と想像すると、愛おしくなる。中国語をもっと頑張ろうと思える。不思議。
ユーラシアの西と東の出会いについて
ユッケは、赤身の肉をこまかく叩き切った、牛肉の刺身で、ドイツあたりでよく食べるタルタルステーキとまったく同じ。タルタルステーキは「タタール人のステーキ」という意味だそうで、中央アジアのタタール族の調理法が西と東に伝播したわけだ。
タルタルステーキが「タタール人のステーキ」だってことも、ユッケがもともとは「タタール人のステーキ」に由来していることも知らなかった。
学生時代、フランスに留学していた時に食べたいけれど食べると必ずおなかを壊すのがタルタルステーキで、美味しそうに食べる友人たちを恨めしく思っていたけれど、その10年後に自分は今度は中央アジアに滞在することになり、そこでタタール人をはじめて知った(でも「タタール人のステーキ」は知らない)。
気が付いてみればもうずっと、自分はユーラシア大陸の雄大さに圧倒されて来て、西と東の繋がる瞬間を発見するたびに静かな感動がある。
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余談だけど、彼女がエッセイに記しているのはソウルオリンピック開催前夜の韓国。ドラマ「応答せよ1988」の時代設定ときっと重なる。
私は見始めてテンションの高さについていけず脱落したんだけど見直してみるか……。(いい役者が出てるんだよな)
ネトフリ、U-NEXTで見られるよ。
『英語独習法』を読んだよ
英語につまずいていた自分の気持ちを鎮めることができた。私は私の目標を持ち、私のペースで頑張ればよいと思えた。
気になった個所、印象深い個所を抜粋するよ。
■思い込みを飛び越えることは難しい
教えるが場がどんなにわかりやすく教える内容を提示しても、それが学習者の期待と一致しないもので、学習者が別の情報を期待していれば、教えられた情報に気づかずに受け流してしまう可能性が高い
ひとは見たいものを見て、知りたいものを知ろうとする。
■英語特有の構文スキーマ
様態動詞 + 前置詞
英語は動作の様態の情報を主動詞で表し、移動の方向は動詞以外で表現する
このスキーマが理解できていないから、様態動詞が使われているのを聴いたり読んだりしても、様態を除いた「歩く」「話す」レベルの意味しか学習者に残らない。「swagger」という動詞を読んでも、頭の中では「walk」と理解してしまう、と。
■スキーマを獲得するためには
比較し、意識的に違うところを見つけ出す
■スキーマ探索のポイント
その単語が使われる構文
その単語と共起する単語
その単語の頻度
その単語の使われる文脈
その単語の多岐の構造
その単語の属する概念の意味ネットワークの知識
■学習の優先順位
プロフェッショナルなレベルに堪えうる英語の表現力を身に着けるためには、一にも二にも語彙である。
■気長に続ける
あまり生真面目に、毎日・毎週必ず英語の勉強をしなければ、と思い詰めることは良くない。大人は忙しい。
■外国語を学ぶ意味
英語(あるいはそれ以外の外国語)を学ぶことで、自分が慣れ親しんできた、当たり前だと思っていた世界のとらえかた、切り分け方のユニークさにも気づくことができる。
- 作者:今井 むつみ
- 発売日: 2020/12/19
- メディア: 新書