コーヒー3杯

紙の日記が苦手だから。

日記(3/30 - 3/31) コロナのこと

3/30

志村けん死去の報。速報が飛び込んできたのは朝。小さなころはすごく好きだったけど、大人になるにつれて、セクハラに近い笑いと相容れなくなってきて実は少し苦手だった。でも、一日中多くの報に触れて、夜になるにつれ、どんどん寂しさが増してきてしまって困った。ご冥福を。

3/31

リモートワーク2日目。週末の自粛を数えると4日も外出していない。
仕事を終えた後、沿線の数駅先までパンとおやつの和菓子を買いに遠出した。人手は少なくなっているのかと思いきや、いまもまだ多くの人は通勤していた。ちょうど帰宅ラッシュの時間で、久しぶりに電車に乗って他人を感じた日。

コロナの感染が次第に広がっている中、都市封鎖も間近なのかどうか。最近考えるのはコロナ前とコロナ後のこと。コロナがいつ収束するのかはわからないけれど、コロナ前の世界に果たして私たちは戻れるのか。
たとえば、マスクをどのタイミングで外すのか。パン屋でかけ始めた陳列棚のパンカバーはいつ外すのか。テレビのニュース番組のアナウンサーたちの距離はいつ縮めるのか。映画館のシートはいつ詰めるのか。
予防のために変わった世界を元通りにするには別の労力と勇気がいる。それとも、もう戻れないのか。そんなことをリモートワークしながら、つらつらと考える。

再会の食卓(2010年/中国)

かつての国内共戦のために、中国と台湾の間で生き別れになった家族の物語。
台湾で暮らしている元夫イェンションが上海で暮らす元妻ユィアーに40年ぶりに便りをよこし、会いたいという。けれどユィアーには現在の夫と子供たちがいる。


映画『再会の食卓』予告編


イェンションの「一緒に台湾へ」の誘いが、ユィアーの再会後すぐに発せられて、こちらとしては少々面食らったけど、すぐに同意するユィアーにも驚いた。40年没交渉だったふたりなのに、こんなにもすぐにわかりあえるものなのか。それとも若い頃の熱い愛情は永遠に純度を失わないものなのか。優しい夫のルーを一体どうするの、と思ったけれど、そういえば「ナビィの恋」のおばぁだって、かつての恋人が現れたらあっという間に心を決めて、優しいおじぃのもとを去っていったのだった。おじぃとおばぁだって長い間連れ添った夫婦だった。私にはわかりえない業がこの人たちにはある。

ユィアーの意思を尊重してルーは離婚に反対しない。離婚手続きを粛々と進めていくルーだけれど、食堂で家族が会したときにはくだを巻く。酔っぱらったルーの語りはユィアーと出会った時のこと。
最終的にイェンションとユィアーは台湾へ一緒に行くことを断念するが、それを伝えるイェンション、ユィアー、そしてルーで囲む3人の食卓では、今度はイェンシェンの思いが溢れる。
二人がともに語っているのは、戦争によって選択した人生のこと。後悔とは少し違う。40年前に失ったものを取り戻そうとしても、これまで積み重ねてきた時間を思い、運命のやり切れなさに戸惑っている。
しかし、この年老いた3人はただ悲しみには流されない。食べて飲んで歌って、いろんな思いを穏やかに共有する3人の食卓は尊い

作品が公開されたのは10年前。撮影はもっと前だろう。
上海の古い街並みを映像に残す気概もあったのか、この映画はユィアーたちの暮らす下町の風景をいろいろな角度から捉えている。この町並みは今も残っているのだろうか。それとも消えてしまったのか。
上海にはやはり、いつか行ってみたいと思う。

再会の食卓 [DVD]

再会の食卓 [DVD]

  • 発売日: 2018/04/03
  • メディア: DVD

日記(3/19 - 3/20)

3/19

去年韓国で買ったinnisfreeのハンドクリームがお気に入り。固すぎず油分多すぎず、ロクシタンとかニベアとかは何度買っても合わなかったのに、innisfreeのは私の肌にスッとなじむ。そろそろ切れそうだったので渋谷109に入ってるショップまで買いに行った。何年かぶり人生3度目くらいのマルキュー(もう誰もこんな風に呼ばないんだろうか)。相も変わらず顧客層は若くて30代後半となった私は完全に浮いてたけどちゃんとinnisfreeのハンドクリームは買えたよ。


3/20

今日は祝日。金曜祝日は久しぶり。
コロナの影響で3月のルミネ10%OFFはお休み。代わりに1,000円クーポンが配信されたので春に着れるLe MinorのカットソーをIENAで購入。
本屋に寄ったら4月から開講される語学講座のテキストが並んでた。待ってた。中国語のテキストをパラパラめくったけれど今日は購入せず。

学校(1993年/日本)

先日BSプレミアムでの放送があったので、久しぶりに本作品を見た。たぶん10年ぶりくらい。トータルで言えば、もう4,5回は見てるんだけど見るたびに違う感情が沸き上がる。

1993年公開作品なので撮影はたぶん1992年。まず飛び込んでくるのは、25年以上前の東京の風景で、「ああ、こんなに古かったんだなぁ」というのが私の今回見た感想。
もともと下町が舞台だから商店街のカットが多いんだけど、当時はチェーン店とか今より少ないから原色的な看板は少なくて、町の色が全体的に茶色っぽい。懐かしいというよりも、自分がその時代に存在してたことが信じられないくらい、もうすっかり忘れている風景だった。 個人的には映画の中の町並みのほうが好きだ。

登場人物やそれを演じた役者たちもよかった。「荻原聖人と裕木奈江がいいな」と思うのはいつものことなんだけど、今回は田中邦衛もいいと思った。演技が、っていうより存在が。今はもう田中邦衛が演じたイノさんみたいな役ってドラマにも映画にもいなくって(現実にはまだこんな人いるけど、エンタメの世界からどんどん不可視化されてる気がする)、田中邦衛みたいな役者の需要はもうほぼないのでは。
そういう意味で言うと、在日韓国人のオモニや残留孤児の張さんなどは、最近の映像作品には乗ってこないキャラクター。脳性麻痺を抱えたオサムもそう。少しステレオタイプな描かれ方をしているようにも見えたけど、夜間中学という舞台の特性もあって、登場人物たちのキャラクターに幅があった。

はじめて見たのはそれこそ公開当時の1993年で私はまだ小学生だったけれど、時を経て見返してみると、作品の本筋とは別の方向に自分の色んな思いが飛んでしまった。だいぶ遠くに来てしまった、という思いでこの作品を見ていた。


学校(予告)

学校

学校

それでも夜は明ける

アカデミー賞を受賞した2013年から、ずっと積読ならぬ積観してた作品。
NHKでたまたま放送があったので、HDDに録画してそれを見た。
いまやAmazonPrimeやNetflixでも見られるんだけど、動機づけになるきっかけみたいなものがないと、なかなか見ない。


結果として見てよかったと思うのだけど、後味はあまり良くない。
風と共に去りぬ」に登場する黒人奴隷なんて、ファンタジーだったんだろう、きっと。
彼らの残酷な現実がこれでもかと突きつけられる。
人間であるのに人間扱いされない彼らの境遇を見ていると、奴隷を扱う側だった白人たちにむしろ関心が行く。彼らに与える痛みを想像したことはなかったのか。
彼らの負った背中の傷跡は見るに堪えない。馬や牛にだって、あれほどの傷を負わせることはなかったろうに。

カンバーバッチやブラピが出ているのが救い。スター俳優が顔を見せると、フィクションだと気が付いてホッとする(実話だけど)。

二度見ることはないと思うし、後味もとても苦しいのだけれど、見る価値がある。アメリカの歴史の確かな一部を伝えてくれる作品だと思うから。

新しい年

帰国した2年前から私の新年は何となく10月から始まる。
手帳も10月に新しいモノに替える。だいたい10月はじまりの手帳って翌年の12月まで使えるけど、次の10月に新調する。
時間の捉え方が2年前の10月を起点に考える癖がついてるから、これはもうしばらくこのままじゃないかな。
今の仕事も2年後の9月に終わるから、また2年後の10月には強制的に新しい年になる。ちょうどいい。